汐は救われているのか

こんばんは。筒井先生に「東くんは肥えてから良くなった」と言われ、調子づいている東浩紀です。
さてさて、原稿がいっこうに進まないので、現実逃避のエントリを上げることにしました。
http://d.hatena.ne.jp/syusei-sakagami/20090316/1237211444
ここで坂上くんは、CLANNAD AFTER STORYの最終話は「駄作」だと言っています(以下ネタバレ含むので注意)。その理由はリンク先には書かれていませんが、ぼくは彼に直接ゼロアカ懇親会で聞いたので知っています。要は、ゲームでは汐バッドエンドのあと、いろいろプレイヤーが努力してようやくトゥルーエンドに辿り着くのに、アニメでは一足飛びにトゥルーエンドに行ってしまっているからダメだ、主人公はもっと努力しなければ幸せになれないはずだ、あれでは御都合主義だというのが彼の主張です。それはまた、坂上くんがFateを評価するのと同じ論理でもある。これは筋の通った批判です。確かに、その見方ではあの最終回は駄作でしょう。
しかしぼくの見方は違うのです。というより、それは、作品の見方の違いよりもむしろ人生の見方の違いと言ったほうがいいのかもしれません。
ぼくの考えでは、もともとマルチエンディング・ノベルゲームでは(そして本当は、ぼくたちが生きているこのリアルな世界においても)、「トゥルー」エンドなどというものはありえない。渚と汐を失った人生も、渚と汐と幸福な家庭を築き上げた人生も、ともに朋也にとっては真実でしかありえない。不幸な人生にも幸福な人生が可能性の芽としては畳み込まれており、またその逆もある、というのがマルチエンディング・ノベルゲームが提示する世界観なのであり、それは原理的に、「主人公が努力すれば幸せを摑むことができる」という通常の物語とは異質なものです。
したがって、CLANNAD AFTER STORYの最終2話で、朋也がある一方の人生から別の一方の人生に突然にジャンプしたとしても、それはまったく原作の世界観を損なわないとぼくは考えます。そして逆に、放映直後のエントリでも書いたように、あの最終話が単なるハッピーエンドだとも思わない。というのも、あの最終話を観たあとでも、ぼくたちは渚と汐が死んだ「別の世界」を忘れてはならないはずであり、そしてその忘却不可能性はアニメ版でもしっかり演出されていたと思うからです。汐はCLANNADでは、救われていると同時に救われていない。そんな両義性こそが、美少女ゲームの魅力の核心ではないでしょうか。
というわけで、いささか電波にゅんにゅんのエントリでした。ぼくも今年は38歳、いつまでこんな電波を受信し続けられるか疑問ですが、社会と非社会の中間でぼちぼちと生きています。
ちなみに、上記のリンク先は、本当はゼロアカ第5次関門の感想エントリです。そちらも読んでみてください。ゼロアカ生もなかなかまじめにやってます。