バイト候補からの手紙

こんばんわ。
東浩紀です。
何年ぶりかわかりませんが、ここでも更新してみます。ゲンロンの公式ブログよりもこちらのほうがインパクトがあるのではないかと思ったからです。
かつて、ゼロアカがアツかった時代、仲山ひふみという男が2chに降臨しました。彼は、高校生にもかかわらず、ドゥルーズに詳しいと主張し、東大も一瞬で合格できると豪語していました。残念ながら、彼は浪人したすえ、べつの某大学に行ったわけですが。。。

が、それはともかく! そんなスーパースター・仲山くんが、ゲンロンカフェに加わってくれることになりました。ゲンロンはますます原点回帰していきます。

というわけで、以下、仲山くんのアツすぎるメールをお送りしましょう。みなさん、11月からのリニューアルにご期待よろしく!!!

坂上さん、東さん

昨日はお疲れ様でした。
かなり衝撃的な流れでしたが、お二人が語ってくれた言葉は確実に響くものがあって、久方ぶりに人と会話して目を醒まされる思いをしました。
しかしそれでも、お二人からの問いかけに対して、回答するのに時間をいただかずにはいられませんでした。そのことについてまず説明させてください。

最初、メール業務について自分の能力に不安があると言いました。あれは決して嘘ではなかったのですが、しかしその時抱いた本心とは微妙にずれたものだったことをいま告白します。
僕が本当に戸惑いを覚えたのは――最初に聞かせてもらった固有名――会田誠小林よしのり三浦展とやり取りできることを面白いと思えなければこの仕事はできないと言われた、その部分に関してでした。
正直に言えば、あの時点では、僕から見て、この三人と東さんが対談することにあんまり面白みを見出せなかった。なぜならそれは、かつて話された主題(リベラリズムヘイトスピーチ、あるいはゾーニングとアート、ショッピングモールと郊外性)の反復をあまりに強く想起させるし、それがチェルノブイリ本、フクイチ本以降の新しい実践にラディカルに結びつくようにも思えなかったからです。また、特に小林よしのりの仕事については、ゼロ年代批評の文脈の外側から眺めた経験が僕にはほとんどなく、そんな状態でいったい自分に何ができるのか全く見えなかった。だからお二人の問いにはっきり答えることができませんでした。
しかし帰宅して夕飯を食べて犬の散歩をしている間に、この戸惑いの中にこそ解決すべき問題が含まれていることに、唐突に思い至りました。つまり、ゼロ年代批評、あるいは批評全般がいまや力を失い、僕自身その強迫観念を維持できなくなりつつあるために、こうした仕事への興味の動線が見えづらくなっているのではないかと思うようになりました。
もう一度、批評の再生を意識しつつ、再びこれらの固有名を眺めてみました。するとかつて話された主題たちの中にこそ震災・原発事故・ダークツーリズム以降の問題と対応した意味が見出せることに気付きました。この意味を通じてようやく僕にも、ゲンロンカフェの再起動、その先にある具体的な希望が垣間見れたような気がします。

 「小林よしのりにAKBの話をさせるだけでいいのか?彼が持っていた日本の土着的思想への嗅覚はそれに収まるだけのものではないはずだ。彼は共感の増幅装置としてのシミュラクルに徹底的に賭けて、イデオロギーそのものが賞味期限切れを起こした世界で物語をつむぐことに成功した人だった。そんな彼がフクイチ計画をどう捉えるか、ぜひとも知りたいじゃないか?」
 「会田誠はアートとサブカルのなし崩し的融合と昨今の美術館ビジネスの困難を同時に象徴する存在である、こんな客観的かもしれないが凡庸な教科書風コメントに何の意味がある?震災以降、明らかに何もかもがどうでもいいといったニヒリズムが支配的なのに、神経症的なツッコミだけは全方位からやってくる今の日本のSNS文化の中において、アーティストとしての彼が感じていること、その想像力の中にこそ僕たちの知りたいことが含まれているのではないか?」
 「下流社会と郊外における人々の生活というテーマは、フクシマという、内部にして外部である圧倒的な場所の名によって、キレイにその存在感を消されてしまったように思われる。だが少し見方を変えれば、フクシマで働く原発作業員や避難民の方々の生活にも、下流社会が顕在化させた過剰流動化の問題や、インフラストラクチャー環境管理型権力が変わりなく関わっており、誤解を恐れずいえば彼らの「放射能に囲まれていることを除けば普通に多様な生活」という現実を見出すにはもう一度、下流社会や郊外を取り上げなおす必要があるわけだ。とくに福島や三陸の諸被災地域は、東京や仙台との関係でいえば、「偉大なる郊外」としての復興を遂げられるかどうかに可能性を賭けている。ゼロ年代の郊外論を牽引した三浦展にこのテーマをぶつけ、それが開沼博など新しいリアリズムを追求する若手の社会学者との議論に発展するのであれば、それはとてもエキサイティングじゃないか?もちろんその知的興奮は、僕たちの意識には上らない、いわば非現前的な領域で、フクシマ=福島という二重化された固有名を歴史に刻みつけることに大きく貢献するはずだ。」

ゼロ年代批評の持っていた力とは「物語」を失った世界をそれでも「物語」として捉えなおす力だったのではないでしょうか?
それは「物語」の外で、新たにその種子のようなものが育っていくことの希望を僕たちに見せるものだったのではないでしょうか?
だから、いまゲンロンカフェの再起動を考えるのであれば、それは「物語」を生成する場として、いわばそれ自体が「物語」でもあるような場としてそれを考えること以外にありえない。
「物語」には媒介としてのキャラクターが必要です。しかし人間はキャラクターになることを望んでいないし、なかなかそれを受け入れようともしない。
しかし残念部は――というより僕は――いま上に書いたテクストから容易に読み取れるように、無教養で、軽薄な知しか持ち合わせていない、残念な人たちです。


メールのタイトルは、僕なりの決意を込めて、それがいつまで続くかわからないけれど、少なくともいまこの瞬間は自分がキャラクターであることを、
いま自分が属しているこの世界が一つの「物語」であるということを引き受けよう、選択しよう、という意図でつけました。

以下、対談イベント案+告知文シミュレーション+コメンタリーです。敬称略です。全部で六件ほど考えてみました

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福嶋亮大×安藤礼二「復興と輪廻転生」
ゼロ年代のネット文化を構造主義的に分析した『神話が考える』の著者である文芸評論家で中国文学研究者の福嶋亮大が近々、『復興文化論』と題された書物を刊行する。文化がエフェメラル(儚い、瞬間的)な消費のシステムへと解消しつつあることを指摘した著者が、いまや世界史の領域へと関心を広げつつ見出した、文明論的危機に対抗する復興文化の可能性とは何か。他方で、折口信夫に対する特異な考察によって文芸評論の世界で注目を集める安藤礼二は、この謎めいた思想家の仕事を軸に、明治以降の近代化に伴った民俗学と文学という制度の誕生の歴史、アジア的伝統に伏流する死と再生のロジックを追求し、その射程をイスラーム井筒俊彦の思想にまで伸ばしている。文化に眠る古くて新しい再生の力を探求する、待ち望まれた二人の対談をいまここにお届けする。

*実現可能性はスケジュール次第だがかなり高いのでは。狙いは、アジアを主題とした議論を、ソーシャルビジネス・政策提言のイメージの強いフクイチ本と同じパースペクティヴにおくことで読者の誤配を引き起こすこと。復活・再生というテーマを強調してゲンロンカフェの空気を変える。大塚英志安藤礼二という組み合わせも考えていたが実現可能性は低そう。


斉藤圭太×斎藤大地「ネットによる軽やかな革命は可能か」
近年メディアを賑やかすネット以降の新しいライフスタイル、シェアハウス、ノマド・ワーキング。渋ハウスはその文脈に大きく括られながらも、渋谷という街の記号性に寄生しつつアートとしての実践をそこに重ねることで巧みにズレを導入している。対する斎藤大地はジャーナリズムの新しい可能性を探してネットカルチャーサイト「ねとぽよ」を立ち上げた。SNS中毒でコミュニケーション偏重な、いわゆるヌルくてライトな新しいオタク世代のリアリティに寄り添いながら彼が目指すのは、労働意識の変革のさらにその先かもしれない。表面的な軽薄さの下で若者たちが共有する革命への隠された欲望、その可能性を巡るこの異色の対談を見逃すな!

斉藤圭太さんとはじつは微妙な関係なので実現はやや難しいかもしれない。ただ芸術係数のイベントのさいにゲンロンカフェには来ているので可能性はあると思う。僕はこの二人が革命について口角泡を飛ばして語っているのを見せるのは面白いと思いますが(というのも今の若者はそういうものに興味が一切ないと思われがちで、なおかつ新しい客層へのアピール力があると思うので)、二人がその図式に乗ってくれないと成立しないというのが最大の難点かも。


・chloma×ケイスケカンダ「ファスト・ファッションを超えてーー新しいロマンティシズムを着こなすために」
新しいファッションとは何だろう?UNIQLOやH&Mをしれっとカッコよく着こなすのも悪くないが、それだけでは物足りない。何より閉塞感がある。『日本2.0』への参加などでゲンロンに縁のある新進ブランドchlomaの鈴木淳也と、独特のポエジーを発散するロリータ系ファッションで若い女性から確かな支持を得るケイスケカンダが、ファッションの新しいロマンティシズムを巡って静かに邂逅する。そしてさらにイベントの最後には両ブランドのプロダクトの試着もできる。実際に着ることでしか味わえない新しいファッションのコスプレ的な快楽に、あなたも勇気を出して目覚めてみてはいかがだろうか?

*対談を対談だけでお行儀よく終わらせてもつまらなくなりそうなので、試着イベントを組み合わせるというのはどうかという企画です。クロマさんはやってくれそうですが、ケイスケカンダさんとは人脈がないので手探りになりそうです。(試着スペースの準備などはまだ考えていませんが男性客が多かった場合、むしろ試着スペースとかいらないかもしれません。)ケイスケカンダ・ファンの女子層はゲンロンカフェとの相性はいいのではないかと思いますし、アートとファッションの話につなげれば思わぬ脱線も期待できそうです。


・ありらいおん×tokada×廣田周作「人文知とデータマイニング、その幸福すぎる関係」
図書館司書として日々データベースに接する傍ら、ニコニコ動画のタグ分布や再生数・コメント数のヴィジュアライゼーションを行っていることで有名なありらいおん、ゲンロン友の会の上級会員であり古くからの東浩紀ウォッチャーでもある人文系エンジニアtokadaと、あのゼロアカ道場の最終選考にまで残り現在ではデータマイニングやビジネスに関する単著を出版した廣田周作が一同に会し、ライフログと検索アルゴリズムと可視化技術の先にある人文知の可能性を、聴衆からの意見もリアルタイムで集めながら語り合う。無味乾燥に思われがちな情報処理技術の先に、新しい夢を見る想像力をゲンロンカフェから提案する。

*友の会&ゼロアカ&関クラ&ツイッター有名人ピックアップ系イベントです。思うにあの登壇者席には、わやわや人がいた方が祭り感が出る。いわゆる講義形式ではなく、質疑応答などを多数挟む参加型の形式にすることで、会場の熱気を上手く取り込みつつ、リピーター+友の会入会への導線を作るのが狙いです。村上さんや峰尾さん、筑波批評の人たちも上手く組み合わせて、こういう形式のイベントのヴァリエーションも考えられます。問題はスケジュール調整ですね。


・仲山ひふみ×永田希「かつて音楽があった」
音楽について語ることがこれほど惨めな行為だった時代がかつてあったか、という反語的問いかけすら空しくなるほどに、20世紀のサブカルチャーの中心に座していた音楽はいまや凋落の一途を辿っている。ジョン・ケージや池田亮二とアニソン、ゲーム音楽を等価に聴く仲山ひふみと、本が好き!BookNewsを運営しDJとしても活動する永田希が、音楽の終わりを軽薄に想像し、哲学・美術・文学の議論も交えながら、アイロニカルに語り合う。すでに一部で話題になりつつある、そんな救いようもなくネガティヴなポスト音楽系トークイベントがゲンロンカフェを襲来する。突発ライブ演奏やシークレット・ゲストももしかしたら?

*比較的ノーコメントですが、一応UST累計視聴者数は200〜300人ぐらいをキープできているので、やり方次第で集客は望めるかと思います。カフェ店員である僕が前に出ることでゲンロンカフェの空気を変えるという一連の流れの中での意味もあります。


・pha×藤城嘘×石岡良治ニートとアートとソーシャル・ゲーム」

ニートの歩き方』でライフワークバランス系論壇に衝撃を与えたphaが、若手の現代アーティストの中でも屈指のニート感を発揮する藤城嘘と、自宅警備員の名の下にニート的イメージが一人歩きしている評論家の石岡良治に出会う。そこで問われるのは、一世を風靡した「ニート」の概念がいまどう変わりつつあるのか、あるいは変わらずにいるのか、ということだ。それぞれの立場から問われる「ニート」という現実は、生きること、遊ぶこと、コミュニケーションすることの境界が消えた現代社会の状況を経由しながら、ソーシャル・ゲームの問題へと収斂していくことだろう。パズドラ、艦コレ、そしてクッキークリッカーへと、その奇形的進化にはどのような美学的可能性があるのか、予想不可能な議論に飢えた好奇心豊かな聴衆に向けてゲンロンカフェは開かれている!

*かなり直感的に考えた組み合わせですが、ニートからソーシャルゲームへというテーマで語るイベントはあっていいかなと思いました。そこにアートを絡ませたのは僕の趣味ですが、phaさんはああ見えて自由即興音楽とか聴いたりしているので、こういうテーマとの相性はいいのではないかと思います。