批評について

ぼくはなにが専門というわけではないけれど、批評とはなにかについてだけは、ここ15年ほどえらく真剣に考えてきたという自負があります。
そんなぼくにとって、批評という行為については、もはやなにを論じているか、その対象やメッセージはどうでもよくなってしまう傾向があります。言いかえれば、ぼくは批評をメタ作品というよりも、ベタにひとつの作品として読んでしまうところがある。したがって、その社会的な影響力や「正確さ」なんてものは、究極的にはどうでもいい。むろん、多くのひとが批評を逆にそういう点でだけ読んでいるのは知っていますし、その受容は尊重しますが。
それは、シネフィルにとっての映画、アニオタにとってのアニメと同じだと考えればいいかもしれません。いかにひどい物語を語っていても、いい映画、いいアニメはありうる。ぼくはそれと同じように批評を読みます。ぼくにとって批評の魅力は、たとえば、文章の構成、問題設定の妙、展開のリズムなどに、またそれに付け加えれば、批評家が「自分が批評を書いていること」に対してどれほど自覚的であるのか、その意識の深さにあるのであり、そういうものがない文章は、ぼくは批評として評価できない。逆に、その基準さえ満たしていれば、対象がなんであろうとぼくには批評的強度に満ちたものに見える。この点ではぼくはいまだに、批評空間+表象文化論派というか、柄谷行人蓮實重彦の直系です(彼らの弟子たちは厭がると思うけど)。どの場所に強度を見いだすのか、その場所が異なるだけで。
ぼくはよく「批評は売れなければいけない」と言います。そのせいで誤解されてしまうのだけど、批評なんて当然売れるわけがない。そんなことはぼくも知っているし、そもそもぼくはぜんぜん本を売ろうとしていない著者です。しかし、同じ売れないにしても、1万部売れればぎりぎり批評という行為は再生産されるけど、2000部しか売れないと批評というジャンルそのものが消滅してしまう。そんな環境のなかで、ぼくが言いたいのは、もし批評というジャンルを愛しているのであれば、批評というジャンルを生き残らせるために最低限の売れる努力をしていこうよ、これからは文芸誌も大学も助けてくれないのだからさ、というだけのことです。
批評を嫌いなひとは、よく「批評なんて社会にとって必要じゃないんだから、消えたってかまわない」と言います。それはまったくそのとおりで、批評は社会にとって必要なものではありません。しかし、そんなことを言ったら、映画もアニメも、いやあらゆる文化が必要なものではありません(だってつい100年前には映画もアニメもなくても社会は回っていたのですから)。ぼくはその前提のうえで、個人的な愛の問題として、日本の文芸批評の伝統は生き残らせたいと感じる。それだけのことです。
ただそのときぼくが、文学とか芸術とかハイカルチャー系のひとたちとちょっとだけ違うのは、彼らはよく、「○○が消えつつあるのは××のせいで、これは悪いことだからみなで対策を立てるべきだ、具体的には公的な支援が必要だし出版社も良書の出版に務めるべきだ」と言うのだけど、ぼくはもうそういう支援は貰えないので言っても仕方ないと思っているということです。批評を生き残らせたいのだったら、自分たちで地味にがんばるしかない。だから思想地図もゼロアカも行っている。これからも似た企画は続けるでしょう。むろん、それは批評を愛していないひとには関係のない話で、そういうひとにはぼくの仕事すべてが滑稽なものに見えるでしょう。実際、ぼくに向けられている批判には、そういった滑稽さを指摘するものが多い。でも、それも、あらゆる職種、あらゆるジャンルに言えることじゃないかと思います。なにかを愛しているひとの行為は、それを愛していないひとには滑稽に見えるものです。
ぼくは一般には、一方に現代思想系のアカデミシャン、他方に非モテ系のオタクたちを読者にする分裂した書き手だと思われています。しかし、ぼくはじつは、学者もオタクも主要な読者だと考えたことがない。ぼくがぼくの本を読んでもらいたいのは、なによりも批評を愛するひとたちです。そしてぼくが批評を書くことで行いたいのは、批評を愛する読者を増やすことです。
ぼくは最近、自分がアカデミズムや大組織の空気に馴染めない変わり者であることがわかってきたので、もうこれからは文章を書いて孤独に生きていくしかないと覚悟を決めました。のたれ死ぬかもしれませんが、そのようにしか生きられないのだからしかたがない(ルソーに惹かれているのはなによりもそういう人生の点でです)。小説を書きだしたのもそのためです。ほかにもなにかやるかもしれない。ただ、これからどのような人生を送ったとしても、ぼくの批評へのこの愛は変わることがないと思います。
とくになにがあったというわけではないけれど、新年度も近くなったことですし、書きたくなったので書いておきます。