バイトから送られてきたメール第二弾

またアツいメールが来たから公開するよ!

祭りの後の灰に触れて――「ゼロアカからフクイチへ」と題されるはずだったもの

仲山ひふみ

つい昨日のことだ。10月22日、五反田のゲンロンカフェで東浩紀太田克史による対談イベント、「ゼロ年代とはなんだったのか Vol.1」が行われた。僕はその翌日に大学のPCルームで一人黙々とキーボードを叩き、この文章を書いている。なぜそんなことをしているかはいうまでもない。かつてゼロアカが持っていたあの祝祭的なムードを再現したかのような先日のイベント、僕自身たくさんの笑いと喜びと共に観覧していたあのイベントに対して、どこかで抱いてしまった、かすかだが決定的な違和感に、僕なりに言葉を与えずにはいられない、そんな気分になってしまった、とにかくなってしまったから。だから書いているのだ。

もちろんこの文章が書かれているのには別の形式的な理由もある。どういうことかというと、ゼロ年代を再考するイベントを連続で開く上で、かつて起きた多くの事件やイベントの経緯を、それらの文脈や背景にも理解が及ぶように解説しまとめた文章が、後々の批評の読者への便宜という意味も兼ねたものとして必要になるだろうから、「ゼロアカからフクイチへ」というタイトルでそれを僕に書かせて欲しい、と坂上秋成さんに僕が提案していたのが、結局当日まで時間が取れず書くことが叶わなかったので、それを少しでも埋め合わせるために書いているということだ。とはいえこの文章を書かせている主な心理的な動機となっているのは、あくまで、昨日のイベントに対して僕が抱いた個人的な感想、意見である。(「ゼロアカからフクイチへ」というタイトルの軽さとは裏腹に、このテーマには多くの未整理な問題が含まれており、そのため僕は期日までに書き上げることができなかったのだという事実は、実のところ事態の本質の一側面を衝いているので、この形式的な理由についても言及したのだが。)

昨日の会では多くのことが語られた、それも今まで多く語られてこなかったような、ゼロアカ発足前夜の東さんと太田さんの関係についてや、ゼロアカ開始後の藤田直哉さんの暴走の痕跡たる「ザクティ革命」のことについてなど。それらに共通していえることは、何らかの形でそれらの語られなかった事情はゼロアカにおける奇跡的事件の数々を――それは僕らの言葉では「神イベント」とか「神展開」とか呼ばれるだが――生み出した原因だったり、それどころかそうした「神感」そのものですらあったわけだが、同時に人間関係において多くの障害を残した、一言でいえば「禍根」のようなものだったということである。

考えてみれば、ゼロアカ道場第四次関門において、藤田直哉という人ほど疎まれつつも、この企画全体の持つ何らかの力を高めた人はいなかった。むしろ彼こそは人に疎まれるような、迷惑がられるようなことばかりする中から、新しい批評的な言語がある「かもしれない」という希望を人々に与えることに成功していた唯一の人だったという気がする。それが結果的には何の批評的言語にも結びつかなかったのだとしても、また当時の彼の本音としては、それらの「神感」をまとうと共に「禍根」を残すような行動もすべては東浩紀の歓心を得たい一心でのことにすぎなかったとしてもだ。

僕たちは藤田直哉――いまやSF批評家として単著を発表し、東浩紀が支持する「カオス*ラウンジ」と彼のプロジェクト「福島第一原発観光地化計画」に痛烈な批判を浴びせることでアンチ・東の立場を誰の目にも明らかなまでに示している彼――をはっきりいって、あまりにも早く拒絶してしまったのではないかと、昨日のイベントで無言のうちに考えたのだ。僕は「カオス*ラウンジ」に参加する流れで、彼がその理論的な後方支援を行ったところの、いわゆる「アンチ・カオスラ」による暴力的な誹謗中傷(特に2011年から2012年にかけてのアンチたちによる、カオス*ラウンジを擁護する第三者への執拗な攻撃や、関係を持った人物への昼夜にわたる嫌がらせ行為、現実空間での盗撮、ストーキングまがいの行動)を多く目にしてきたので、心情的には、藤田直哉による「ネット民」支持はまったく許せなかった。にもかかわらず、いまだに僕にとっての藤田直哉は、あのゼロアカの頃の、「ザクティ革命」の動画の中の、あるいは東スレにしばしば書き込んでコテハンだった僕と議論してくれた藤田さんとして、まだ名も与えられず輝きだけを放っていた、ある新しい批評言語のほとんどゼロに近い誕生の可能性の残光と共に、いまでも強烈に記憶されたままなのだ。

この感覚はおそらく昨日のイベントに参列した多くの人があえて言わないながらも等しく感じたことではなかっただろうか。飛躍した物言いを許して欲しい。きっと僕たちゼロアカを通過した人間は、藤田さんと「共に」炎上したかったのだ。藤田さんが炎上する側で、僕らはそれをみて楽しむのではなく、あるいは藤田さんがけしかけ、僕らが炎上するのでもなく――それは東さんが宇野さんに感じているねじれた感情とも共通するものなのかもしれない。「僕たちは批評とか文学とか哲学とかアートとかそういうものに関わっている以上、炎上させる大衆の側ではなく、炎上するマイノリティの側だったはずじゃないか!」――だが「共に」炎上することを選択しなかったという意味では、第五次関門のあの段階で既に僕たちは藤田直哉に一つの負い目を感じているのだ。いやでも、しかしそれは、避けられないことだったのだ。僕たちは結局ばらばらに炎上する、ばらばらなマイノリティにすぎない。罪や過誤や責任やらを押し付け合いながら、誰が正しく優れているかを競い合っている。誰が正しく優れていたところで、所詮大した力も持ちえないというのに。そしてある日ぷっつりと、誰かのツイッターFacebookアカウントの更新が止まる。時計が止まるように、人の死は訪れる。事故で、被災で、罹患で、自殺で。

もう少しだけ論理を飛躍させる。じつは僕はあの2011年3月11日、夕方のニュースを見ながら、なぜ僕はこの日この時刻に宮城に、あるいは福島の海岸線沿いにいなかったんだろう、と思っていた。若者の甘えた幻想であることは承知の上で告白すると、僕は当時自分の人生にそれなりに絶望していて、「みんなで死ぬこと」に深く考えもせず憧れていたのだ。僕は災害という偶然性に襲われて、これまでの人生で辿ってきた必然性の履歴をすべてリセットされて死ぬことに、感じてはいけない希望を感じてしまっていた。僕がそんな甘えた錯覚に耽る少し前、つまり地震直後、その震源地と規模すら知らずに、自分が死にかけているというツイートをふざけて流したいわゆる「破滅クラスタ」の糸柳和法は、その後の周囲の擁護のかけ方が不味かったのも相まって、一瞬にしてネットの良識的な多数派たちによって炎上させられ、その社会的生命を終えた。間もなくして、展示での協力関係などで彼と比較的近しい関係にあった「カオス*ラウンジ」は、糸柳と「破滅クラスタ」との関係を断ち切ることを公式に発表することになる。「カオス*ラウンジ」どそのものが梅沢和木のある作品をきっかけにして炎上を経験することになるのは、それからほんの数ヶ月後のことだ。

祭りも、炎上も、災害も、すべてまったく次元が違うことを承知で言う。それでも僕たちはその向こう側に失われた共同性、失われた「共に」の可能性を見てしまう。ばらばらに死んでいくよりは、どこにも届かない言葉=心を抱えたまま消滅するよりは、一瞬だけ垣間見える輝きの中にいたいと誰しもが思う。そして一瞬でいいと言っておきながら、いざその瞬間が訪れると、できればその輝きが永遠であって欲しいと、卑怯にも願ってしまう。SNSとかやっているやつには孤独がわからないと東さんは昨日のイベントで述べた。その言葉の意図をたしかに受け止めつつも、あのとき僕は、逆ではないか、と考えていた。本当の孤独は、こんなにも多くの人に自由に言葉を、表現を届けられる環境にありながら、同じ時間と空間を共有しているように見えながら、僕たちは結局誰ともつながってなどいない、言葉は常に宛先から微妙に逸れ続けていると気づくことにこそあるのではないかと。

おそらく必要なのは二つのことだけなのだ。まず、嘘をつくのをやめること。言語の本性に従って、正直にこう述べるべきなのではないか。僕たちはSNSをやっている。人とつながりたいから。人と語り合いたいから。人と「共に」ありたいから。でも僕たちは知っている。SNSでは、いやほかのどんな媒体をもってしても、他者とはつながれない。「共に」あることなどありえない。すべては僕たちの矛盾した欲望が――つながれないとわかっていながらつながりたいと思ってしまう心が――つけ込まれているということに集約される。そして、こうしたコミュニケーションの錯覚を社会はまさに必要としているというわけだ。

もう一つ必要なことは、時間と空間の共有ということに関係する。昨日のイベントで僕たちは藤田直哉の撮影した動画のうちいくつかを、ニコ動のコメントともに見た。濱野智史がいうようにニコニコ動画のコメントは異なる時間に書き込んだコメントが、動画の上では一つの時間に書き込まれたかのように演出される、擬似同期のシステムにしたがってその強度を獲得している。僕たちはあの第五時関門のシンポジウムの映像を、当時会場内に同時中継されていたニコニコ生放送のリアルタイムコメントと、その記録がアップロードされたニコニコ動画の映像につけられたコメント、さらにそれがゲンロンカフェから配信される際のニコニコ生放送のコメント、そして東浩紀太田克史と観衆の笑い声と「共に」みていたわけだが、このようにして多重化されたコメントや言葉の層が、すべてどこか反復的で再帰的なものに思えるのは自然な成り行きだった。そして結局、そうしてそれぞれ別の時間に書き込まれた、祭りそのものとは別の時間に属する、焚火の後に残った白い灰のごとき言葉たち、擬似同期するコメントを通すことによってしか、僕たちはかつて感じていた「共に」一つの新しい批評的言語を生み出すという実験の強度を、生き生きとした色彩を伴って想起するということが叶わなかったのだ。だがいまとなってはさらにこうも思う。祭りが起きたことなどかつて一度もなかった。炎上が起きたことなどかつて一度もなかった。災害が起きたことなど――これは新たな炎上を引き起こすだろうし、メタファーの重ね過ぎで推論が不正確になっている気がするし、女は存在しないとか社会は存在しないといった批評に特有な自己撞着的レトリックに落ち着いてしまいそうだから言わないが――・・・・・・あのゼロアカがアツかったと言われていた時代、僕たちは単に幾重にも重なったかつての祭りの後の灰を眺めていたにすぎなかったのではないか。美少女ゲームの、初期ファウストの、新現実の、90年代アニメの、批評空間の、文学史の、それぞれの残した白く柔らかな灰と戯れながら、かつてあった火の大きさに無意識に焼かれつつ、苦痛とも快感ともつかない興奮と「共に」言葉を吐き、動画を撮っていただけだったのではないか。要するにこうだ、すべては非常に一般化された意味での擬似同期が見せた、束の間の夢だったのではないかということだ。

もちろんそれが極論であることを意識していないわけではない。この洞察から得られるのは、炎上など幻想であるという帰結だ。しかしそれは対症療法にすらならない、役立たずのテーゼには違いない。だって僕たちは、この期に及んでもまだ人とつながりたいと思っているのだから。人とのつながりを本当にすべて捨てていいと決意するのであれば――もうSNSだのなんだのでの炎上を気にすることは一切やめるべきだ。しかしきっと、そこまで思い切ることは僕たちにはまだできない。その事実こそが、僕たちがまだ十分に孤独でないことの証明になっている。

この中途半端な孤独の中で、僕たちは何をすべきだろうか?東さんも、僕も、僕の師匠である黒瀬陽平さんも梅沢和木さんも、いちおう炎上を幾度か経験している。僕たちはこれからも炎上を経験するだろうし、炎上は本当の炎に焼かれて死ぬことに比べればたぶんそれほど苦しくないことも知っている。だが、炎上が人と人とがつながれるというあの甘い錯覚を確実に焼き払っていくということだけは、確実に知っている。炎上を恐れつつ、炎上の力を利用する、そんな邪な考えがだんだん僕たちを支配する。メジャーにこそ見過ごされてきた真の批評的可能性があるというロジックは、炎上を避けつつ炎上の力の源である多数派の欲望にだけ安全に働きかけようという、ある意味では今日の状況に置ける最適解としての戦略には違いないだろう。この水平的な戦略の台頭によって、ゼロアカの水平的に見せかけながらきわめて垂直的な実存によって駆動されていた想像力の可能性は、完全に抑圧されることになった。

長くなりすぎたのでそろそろこの文章を終えよう。結局僕には「ゼロアカからフクイチへ」などという希望に満ちたタイトルを与えられた文章は書けなかった。僕にできたのは、いま書いているこの文章のように、ただ個人的に思い入れのある過去を非-公共的な態度でもって眺めながら、そこに置いてきてしまった言葉のかけらを自慰的に撫でるようなことにすぎなかった。

たぶん――ゼロアカ道場とは批評にとって、流産した言語行為のようなものだった。

しかし僕たちは、こうして残った言葉たち=灰たちを重ね散らしながら、まだ何か書くことがあるはずだと探してみることはできる。ネットの海の中には、あるいはネットの外でもいい、いっけんつながっているように見えて、どこにもつながっていない言葉を、表現を吐き出す人たちがいるはずで、じつはそれは結構すぐ近くにいる他者から発せられているものかもしれないのだ。それをゼロアカという祭りの後の灰と混ぜ合わせること。ゼロアカという、数限りない「禍根」と「神感」を同時に残した出来事を、新しい言葉や表現の可能性の中で、なんとか救い出してやること。それははっきり言って無理かもしれない。でも、誰かがそういう無理な仕事をやるのでもなければ、あまりにもあの頃の言葉たちは、救われないではないか。