ヱヴァンゲリヲン劇場版:破

東浩紀です。一週間ほど休暇を取り、日本とネットから離れていました。ブログのほう、ご無沙汰してすみません。
さて、帰国後すぐに「ヱヴァンゲリヲン劇場版:破」を観てきました。この作品についてはおそらくあちこちで語ることになると思うので、短い感想だけ。
結論から言えば、ぼくの予想よりもはるかによかったです。まずは新しい使徒のデザインがすばらしい。このために劇場に足を運んでも後悔しません。批評家的には、たとえば新キャラ眼鏡っ子に注目でしょうか。彼女はゼロ年代的というか決断主義的というか、要は西尾維新キャラとして導入されており、90年代ひきこもり組(シンジ&レイ)と対照的な存在です。そこに、2009年にこの作品を問うことの意味は十分含まれていると言えなくもない。
ほか鑑賞中も、批評的な物語*1がいくつも思いつきました。おそらくぼくは、批評家としては、この作品を評価するべきでしょう。少なくとも「序」よりは何倍もいい。アスカの「わたし、笑えるんだ」もよかった。最後のシンジとレイもよかった。90年代作品をちゃんとゼロ年代化できている。
しかし――しかし、そのうえでいえば、ぼくは鑑賞後、とても複雑な気持ちを抱きました。
どういうことかといえば、ぼくはそこで、この作品を評価すべきだと思う、そして実際に評価する論理も作ることができる、しかしその欲望がわかない、というとても矛盾した感情を覚えたのです。評価するべきかどうかという判断とは別に、心がどこかで醒め強ばってしまい、動かないのです。
その矛盾の正体については、滔々と自己分析してもしかたないので詳しくは控えておきます。
ただひとつだけ言えば、それは結局、ぼくがこの新エヴァに、映像密度への驚嘆や批評的再構成への感嘆と反比例するかのように、「アツさ」や「ヤバさ」をまったく感じ取れなかった、ということを意味するのだと思います。これはぼくのきわめて個人的な感想ですが、とにかくそうなのです。
エヴァンゲリオンの物語は、普通に見て単に荒唐無稽な、あえて言えば幼稚な物語です。SF設定の妙がどうとか、政治的寓意がどうとか、メッセージの深さがどうとかいうものではありません。それでも多くのひとがそんな荒唐無稽な物語に吸い込まれたのは、煎じ詰めればシンジとレイとアスカのあの妙にテンパッた台詞や行動のゆえだったのだと思います。だから、その「イタさ」がうまく物語のなかに回収されてしまうと、作品からなにか欲望の核みたいなものが抜け落ちてしまう。ぼくはそう感じたのでした。
繰り返しますが、これはぼくのきわめて個人的な感想です。そもそも欲望がわかないのは、単純に年齢を取ったからかもしれない。96年に25歳だったぼくも、そろそろ40歳です。
批評的にはこの作品は評価すべきだし、実際に評価されることでしょう。そしてそれでいいのです。
【追記】
上記エントリのあとで友人からのメールを読み知ったのだけど、この作品、批評家筋には評判が悪いのですって? ネットを見てないので知らなかった。
もしそうだとすれば、ぼくはこの作品は擁護します。セールス的には、そんな「擁護」はまったくどうでもいいものでしょうけど。

*1:評論文のプロットという意味。