批判について

限界小説研究会編『社会は存在しない』をご恵投いただきました。ありがとうございます。

社会は存在しない

社会は存在しない

内容についてはいまのところ、刺激を受けた論文もあればそうでもない論文もある、というあたりまえの感想しか書けませんが、とにもかくにも、「セカイ系」という言葉に象徴されるゼロ年代の文学の一流派について議論がもりあがるのは好ましいことです。東浩紀は限界小説研究会を応援しています。

――というのが公式見解なのですが、ただひとつ、ある執筆者のあまりに論争的なスタイルには首を傾げました。
そのひとの論文は
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20090714/1247585761
ここでも紹介されているように、本文よりもある意味では注のほうが目立っているテクストです。id:sakstyleさんはそれをおもしろいと感じたようですが、ぼくはそうは思いません。単純に無駄だと感じました。
そのひとの註釈、「東浩紀は○○を見落としているから貧しい」「宇野常寛は○○を見落としているから愚かだ」「ユリイカ中上特集での東と前田塁の対談はレベルが低い」「早稲田文学シンポジウムの○○についての言及はお粗末」と、まあつまりは、東ー宇野ー早稲田文学まわりへの批判が続きます。それも、必ずしも本文の文脈で必要とは思われないかたちで続いている。
しかし、このひとの論文そのものは、外国人の名前を何人も出しているけれど、別に驚嘆すべき博学に支えられているというものではない。このひとはいまぼくが『存在論的、郵便的』を出版したときとほぼ同じ年齢のようですが、10年前のぼくであれば、このひとのデリダへの参照の乱暴さ(「散種」の概念*1の理解)に難癖をつけることもきっとできたでしょう。むろん、いまのぼくはそんなことにまったく意味を感じませんが。
そもそも、数百字の枠で「○○を見落としているから貧しい」などという批判はだれにでもできるのです*2。なにか新しいことを試みることは、必ず、それまで触れられていたなにかを意図的に落とし、別のなにかを取り上げるという作業を伴うからです。このひとは、そのことがわかっていないのではないか。本文だけでよいのに、なぜこんな註釈をつける必要があったのか。
とにもかくにも、そのひとの文章は不必要なまでに論争的でした。批評の水準がどうこうとは別の水準で、そこにはある意志を感じざるをえない。
それが研究会全体の党派的見解でないとよいのですが。
いや、むろん、そうではないと信じています。

まあ、そのひと個人については、ここまでぶちあげた以上、このあとにはきっと、数百字での言いっぱなしに終わらない、ぼくや宇野くんの本質を突いた批判が待っているのでしょう。文芸誌かどこか派手な場所で。
せめてそれを期待します。

*1:揚げ足を取られるとまずいので補足すると、デリダは「散種」が「概念」だとは言わないでしょうけれど。

*2:ぼくもむかしはしたことがあります。そしてそれを恥ずかしいと思います。その点を誤魔化すつもりはありません。ただいまでは、なるべくそういうことはしたくないと思っている。なぜなら、世界はあまりに広大で、無知でないひとなどいないことがよくわかってきたからです。――とはいえむろん、新聞コメントなどでは自分の発言が大胆に要約されてしまうので、そう見えることもあるかもしれない。そしてそれを受け入れなければ発言の場そのものが狭まるだけなので、ぼくはそういうことも限定的に受け入れる。その意味では「東もいまだって同じことやっているじゃないか」と思われることもあるかもしれない。それもまた認めます。しかし、そういう不可避かつ現実的な条件も含めて、とにかくいまのぼくとしては、批判をするときはなるべく相手の可能性の中心に降りて、それを換骨奪胎するかたちで行いたいと思っているし、それが批評家として最低限の倫理だと思っている。そういうことです。