投げ合う

ハマノ−鈴木−僕のキャッチボール第2段。
http://it.nikkei.co.jp/it/njh/njh.cfm?i=20031028s2000s2
http://ellington.gel.sfc.keio.ac.jp/nsly/mt/ns/000760.html

http://www.socion.net/soul/index.php?itemid=113


現実のコミュニティの維持に関わるスキルを持たないまま、コミュニティ「みたいなもの」の関係だけを体験できても、おそらくそれはそういうのが居心地のいい人にとってしか意味をなさない。現実の地縁コミュニティには(そして一刻館にも)コミュニティを維持するために成員は無条件で掃除に参加しなければいけないとか色々ルールがあったりするんだけど、なんか今の状況は2ちゃんねると同じくシステムに対するフリーライダーが恩恵だけを享受してその恩恵を賞賛しているような気がしないでもない。
ふむ。しかし、では鈴木さんが考える「コミュニティの維持に関わるスキル」は、たとえばこのはてなの場合、どのように発揮されるべきか? 寄付か? ではいくら払えばいいのか? それとも、システムについてのバグレポートとか要望とかそういうことか? でも、そうなると、オンライン・コミュニティへの参入者には高いコンピュータ・リテラシーが求められることにならないか? そして、それは結局、「素人がはてなで騒いでいるんじゃねえよ」という話と変わらなくないか? そして情報弱者の排除に繋がらないか? それでいいのか?
現実のコミュニティについても考えてみよう。鈴木さんは「コミュニティの維持に関わるスキル」を重要視する。みんなで共同生活しているのだから、そのぶんのコストはみなで負担しようと考える。それは一見正しい。しかし、では、たとえばひきこもりは? 選挙に行きたくないやつは? 年金を払いたくないやつは? 彼らはみなフリーライダーか(マスコミは一般にそう考えているように見える)? そして、フリーライダーは、自分がなぜフリーライドしている(定職に就かない、選挙に行かない、年金を払わない。。)のか、いちいち釈明しなくてはいけないのか? しかし、そんな説明をしたくないからこそ、彼らは社会システムから「降りて」しまうのではないか?