波状言論3月号■北田×鈴木×東鼎談■抜粋2

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鈴木:それともう一つ、entitlementで管理可能なドゥルーズ的な管理社会になっていったときに、それに反対するのがすごく難しいというお話は、『自由を考える』のなかでも東さんがおっしゃっていました。そこで管理に対するために、自由を担保しろという話をしようとすると「自分が危険な目に遭う余地を残せと言うのか」とか「お前は自分の子どもが危険な目に晒されてもいいのか」といった言い返しをされてしまう。あるいは「監視社会ができます」となっていくときに、監視して「ゲイティッド・コミュニティをつくることの何がいけないの?」と返される。「いや、ゲートの外側には貧乏な人たちが排除されているじゃないか」と言っても「ああ、それは格差批判だね、じゃあ格差を解消すれば問題はないね」という話になる。つまり、それでは格差を批判しているだけで、ゲートを閉じることに対しての批判になっていない。あらゆる場所でそういうことが起こっていて、ものすごくしっかりと理論的に詰めていかないことには、ゲートを閉じることや、監視や管理することそのものには抵抗しようがないところに我々は来ている。

東:そのとおりですね。そして、いまのところ、そういった議論に抵抗するリベラリズム側の自由論としては、いわば井上達夫的なきわめて抽象的な議論しかない。立岩さんでも大澤さんでもいいのだけど、そういう自由論は議論としては面白いのだけど、現実にはリバタリアン+情報技術に負けてしまう。

鈴木:間違いなく負けますね。

東:負けるんですよ。そこが悔しい。何とか別の議論を立てられないものか。

北田:さきほど情報技術とリバタリアニズムは相性がいいと言いましたが、つまりこれは監視社会とリバタリアンは――権原理論を媒介として――やたらと相性がいいということです。リバタリアンの考え方は、とにかく国家の権限を少なくしていって最小国家にしていこうというものです。最小国家は、結局個人のセキュリティだけを守ればよくて、ものすごい薄いことしか再配分の対象にはしない。しかし、実はセキュリティのリスクは考え出すと際限がない。いつでもどこでも何に対してでも万人が100%確実に安全を確保できるようなシステムがつくれるはずがない。ゆえに、セキュリティに対するリスクは実はいくらでも大きく見積もれる。ここで最小限国家が最大限国家になっていくというパラドックスが監視社会のなかで出てきてしまう。それを批判するためにあえて自由だとか「プライバシーの侵害」と言って、非常に素朴なリベラル的な意見で反論したとしても、さきほど鈴木さんがおっしゃったように、権力の側にも一般の人々の側にも全然届かない。監視社会批判の構図を、東さんの『自由を考える』や「情報自由論」的に複雑に考えていかないといけない。もうこれはリベラリズムリバタリアニズムリベラリズムコミュニタリアニズムといった単純な図式では監視社会を批判しきれない。

鈴木:さきほど北田さんはリスクとおっしゃいましたが、僕は監視についてこういう風に考えているんです。監視社会が何を監視しているかというと、未来の危険を監視しているわけですよね。つまり未来に起こる「かもしれない」危険を監視するので、リスクはいくらでも高く見積もり可能になる。そして、監視しているデータは自動的にデータベースに蓄積されていくので、管理している側、つまりゲートの内側にいる人間にとっては、どんどんリスクが見えなくなっていく。つまり外部が徐々に不可視化していくわけですが、その反対側で、内側のまとまりを保つ、過剰な可視化のロジックが呼び出される。日本の場合はその「内側のまとまりのためのロジック」が「道徳」になっているんではないか。
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