アイロニーと「あえて」

今日は「だ・である調」で書いてみよう。今月あるいは来月で佐藤心くんの連載が終わることになったので、突発的に編集会議を行った。
その内容はまた別途報告するが(新連載をお楽しみに!)、そのとき編集部員が話題の『新現実』を買ってきていたので、ぱらぱらと流し読みした。大塚英志氏と宮台真司氏の対談では、名前が記されていないが、波状言論2月号の鼎談が触れられている。光栄なことだが(名前も挙げてくれればもっと光栄だったが 笑)、その部分がこれから読まれるにあたって、補足的に書き記しておきたいことがひとつある。
リチャード・ローティが言う「アイロニー」とは、「僕はこの件では私的には○○だと信じるけれど、世の中にはいろいろな価値観のひとがいるから、公的にはそれが唯一の価値観だとは主張しないよ」という態度のことだ。つまり、寛容の精神のことである。
それに対して、宮台氏と大塚氏が語る「あえて」の精神とは、「僕はこの件では、私的には○○だと信じていないけど、世の中のためを思って公的にはそう主張してやるよ」という態度のことで、内実がひっくりかえっている。そして、その逆転は、容易に、「あいつらベタで○○って言うけどさ、俺たちはあえてやってるわけでしょ、ほんとあいつら困ったもんだよねえ(笑)」という冷笑的な態度(シニシズム)を生み出してしまう。実際に、今回の『新現実』に限らず、彼らの最近の言動にはそのような態度がしばしば見られる。これは、自己を優位に置くための論争上の戦略でしかなく、寛容の精神からほど遠い。この点で、ローティの言う「アイロニー」と、最近の宮台/大塚の言う「あえて」は、残念ながら、同じメタレベルへの遡行を行いながらも、実践的にまったく異なった態度のように思う。
かつて、柄谷行人は、ここで言っている「アイロニー」を「ユーモア」と呼び、逆に「あえて」を「アイロニー」と呼んで区別したことがある。用語法がねじれてるので分かりにくいかもしれないが、ここでのポイントは、要は、メタレベルに遡行すればいいわけではない、ということだ。あらゆる言説はコンスタティブと同時にパフォーマティブに機能するので、何のためにメタレベルに遡行するのか、その目的と効果こそが問われなければならない。メタレベルへの遡行が、結果的に同じ価値観をもつ共同体(たとえば「世代」?)を再強化するだけなのであれば、そんなメタには何の価値もない。
先日の投稿で「メタがないやつには興味がない」と述べたが、続けて書けば、僕は、メタだけしかないやつにも同じように興味はない。僕は、「あえて」ではなくアイロニーを、柄谷風に言えば、アイロニーではなくユーモアを選ぶ。
北田暁大氏と僕が、波状言論3月B号の鼎談の最後で、「いま必要なのは「ベタにあえて」ではなく「あえてベタ」なのだ」と分かりにくい表現で意気投合していたのは、そのような区別を意味するものだと理解してほしい(ですよね?>北田さん)。