波状言論3月号■北田×鈴木×東鼎談■抜粋1

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東:いずれにせよ、教養の体系としては、この三つをうろうろしていたという感じです。ほかの人もだいたい同じ感じで、あとはそこに蓮實重彦系の映画批評やシネフィルが付け加わるぐらいじゃないかなあ。僕は蓮實文体にちょっとついていけなかったので、表象文化論専攻にもかかわらずそこがいちばん手薄いんですが。とにかく、1990年代前半の僕にとっては、批評、サイバー、建築が、知的関心の三角形を形作ってました。

鈴木:『批評空間』を頂点とするピラミッドですね。北田さんもそんな感じなのでしょうか?

北田:近いと思います。僕は吉見俊哉さんが師匠でしたし、カルチュラル・スタディーズも勉強はしていたんですが、その基本的スタンスには共感すると同時に、理論的には物足りなさも感じていました。だからやっぱり、ニューアカの残り香に触れてしまったあとの状態で知的関心の軸になるのは、なんのかんのと『批評空間』でしたね。「難しいなぁ」とか思いながら『批評空間』系列の本を一生懸命読んで、興味がないのに建築の本を読んだり、という経験をしていました(笑)。

東:わかります、わかります(笑)。何だったんでしょうね、あの建築への興味は。僕たちの世代は、みなそうだったんでしょうかね。ひょっとすると、みな普通に建築家に詳しかったりするのかもしれないですね。ダニエル・リベスキントとかピーター・アイゼンマンとか。

北田:そうですね。みんな口に出しては言わないだけで。

鈴木:当時としては『批評空間』や建築の本を読むのが当たり前だったと。それこそニューアカのときは浅田さんの『構造と力』(勁草書房、1983年)をポケットに入れて、という話がありましたが、ほぼそのノリで……?

東:そこまでポピュラーなノリではなかったんだけど、ニューアカの残光に触れてしまった学生のなかには、かなり強迫的に「読まねば」という意識が働いていたと思う。

鈴木:さまざまなものに全方位的に関心を持たねばならないという意識があった?

北田:少なくともそういうノリはありました。あのころは、表象文化論だろうが社会学だろうが、専門の学問領域が全然ちがっても、『批評空間』系に染まっていた人たちが一定数いたと思います。
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