韓国「教授新聞」

韓国の「教授新聞」という大学関係者向けのメディアより、メールインタビューを受けました。下のサイトに韓国語で掲載されています。
http://www.kyosu.net/news/articleView.html?idxno=18058
日本語で記した応答の全文を以下に公開します。誌面の都合上、翻訳掲載されているのは一部だけかと思います。
ぼくのところにはしばしば外国から取材依頼が来るのですが、「オタクの心理について知りたい」とか「萌えについて説明してくれ」というものが圧倒的に多く、そういうのは軒並み断っています。しかし、このメディアの質問はとても真摯なものだったので、引き受けたのでした。

――1.初期デリダに対する研究から、おたくなどサブカルチャーに対する研究に至るまで東浩紀先生の軌跡には、他の研究者からは独特だと思われている点も多々あるのではないかと思います。先生が研究者として生きながら、持続的に堅持している問題意識があるならそれはどういうものなのかをお教え頂けませんでしょうか。
むろん、持続的な問題意識はあります。そのひとつ(必ずしもそれだけではないのですが)は、「人間は一回の人生しか生きられないけれど、他の人生も想像することができる。そのことにはどんな意味があるか」という問題です。ぼくのデビュー論文は「確率の手触り」というタイトルで、強制収容所での生死の分かれ目の不条理さを扱った文芸評論でした。ぼくのデリダの著作でも、確率論や可能世界論は大きな位置を占めています。オタク関係の著作でも、じつはぼくはマルチエンディングノベルを主題的に扱っています。対象はずいぶん移動していますが、この点では一貫しているはずです。

――2.先生は哲学の研究者としても成功的な道を歩むことが出来ただろうに、サブカルチャーに注目した特別なきっかけや動機はおありでしょうか。
一方の理由は、ぼくがもともとオタクだったから、そしてタイミングよく1990年代半ばに日本で『新世紀エヴァンゲリオン』のブームがやってきたから、です。ぼくはこの作品には大きな感銘を受けました。しかし他方では、1990年代末の日本で、現代思想や批評の言説が閉塞していたからです。それを打ち破るためには、扱う対象や文体の大胆な変更が必要だと感じました。

――3.先生が主に影響を受けた思想家や思想の流れががあるのか知りたいです。特にフランスの思想にはかなりの興味をお持ちのようですが…。
ぼくの仕事は、フランス現代思想だけではなく、戦後日本の文芸批評の伝統に深い影響を受けています。とくに柄谷行人の仕事には大きな影響を受けました。他方、もしいわゆる哲学者以外でぼくの仕事にもっとも大きな影響を与えた「思想家」をひとり、というのであれば、それはドストエフスキーです。

――4.『動物化するポストモダン―オタクから見た日本』などの著書で先生は、近代的類型の人間が消えているという暗示を示しているように思われているようですが、それに対して、果たして未来の人類にはそのような「動物的でポストモダン的でおたく的な」人間が多くなるのだろうか…という疑問が浮かびます。そのようなタイプの人間は、パソコンやネット、マンガ文化が活性化されていて同好の集まりが活発な環境、つまり日本のような国でしか見られないのではないかという疑問に対して、先生の理論がどのような点で地球的な規模の普遍性を持つのか、その答えをお教え頂けないでしょうか。
まず一方で、オタク文化そのものがいまやグローバルな拡がりを見せています。したがってオタクたちの生はもはや日本だけの特殊な事例とは言えません。しかし他方で、ぼくの本では、オタクたちの生は、あくまでもポストモダン社会あるいは現代社会のひとつの例として分析されていることには注意してほしいと思います。ぼくは、オタクたちが特殊だと言いたかったのではなく、その一見特殊に見える生き方にこそ、現代社会の普遍的な問題が示されていると言いたかったのです。ネットの整備や仮想的環境の拡大、政治的なイデオロギーの無効化やコミュニケーション志向メディアの発達は、日本にとどまらない世界的な傾向です。その傾向のうえで、日本ではたまたまオタク的なライフスタイルが発達した。ほかの国ではそれは、オタク的ではない表現を取っているかもしれない。しかしそこでも、『動物化するポストモダン』で提案した「データベース」や「動物化」の概念はあるていど適用可能ではないかと思います。

――5.経済危機、環境汚染、局地戦、民族の葛藤、貧富の格差など現代の現実は、まだまだ巨視的な解決策や巨大な談論、そして強い倫理的な実践を必要とするという主張が存在します。そのように、まだ人類には社会的な解決策や政治的な戦略、倫理的な訴えなどが必要だという点に先生は同意しているのでしょうか。もし同意しているなら、それは先生の主張として知られている「人々のポストモダン動物化の傾向」とは対立されるのではないのでしょうか。それに対するご意見をお教え頂きたいです。
むろん、同意しています。そしてそれは、ぼくの主張とは衝突しません。というのも、ぼくが『動物化するポストモダン』で主張したのは――これは日本でもしばしば誤解されているのですが――、人間の全面的な動物化ではなく、むしろ「人間的部分と動物的部分の解離的共存」だからです。
今後も人間は、自分の関心が向けられた問題については、いままでと同じように政治的で倫理的でありうる。ただ残念ながら、イデオロギーという「複雑性の縮減」が機能しなくなったあと、複雑さが複雑さのまま現れるようになった世界においては、いくら政治的で倫理的であろうとしても、すべての領域において政治的で倫理的であることはできない。たとえば、格差問題に熱心なひとは環境問題に無関心かもしれないし、反原発の活動家がナショナリズムジェンダーのの問題には驚くほど鈍感かもしれない。右翼と左翼、保守とリベラルといったパッケージングが機能しなくなり、シングルイシューごとに、さまざまな立場がモザイク状に混在するのが、21世紀の世界だと思います。つまりは、ポストモダンの人間は、ある部分は人間的に、しかしほかの大部分では動物的に生きるようになる――それがぼくの主張なのです。
今後も、現実の諸問題を解決するために政治的思考は必要でしょう。そしてそこでは真剣で公共的な議論が交わされるでしょう。しかし、これからの世界で現れてくるのは、あるイシューについてはすぐれて公共的議論を展開しているまさに同じひとが、別のイシューに関してはただの消費者、「動物」でしかないという状況です。近代が理想とした総合的な知識人は、おそらく存在できないのです。

――6.今韓国の一角では、機械化、情報化の深化が人間と機会の共進化(co-evolution)を引き起こすのではないかという意見が出ています。それは、人間の側面から見ると人間が機械に依存し独自の記憶力、計算力、思考力をだんだん喪失し、引いては機械と同化されるのではないかという憂慮とも言えます。先生はこのような予測と憂慮に対してはどのようなご意見をお持ちでしょうか。
人間と機械との共進化、というのを比喩的な意味で取るのであれば、それはいまにはじまったことではなく、人類の文明全てに言えることだと思います。たしかにグーグルの登場で人間はますますものを覚えなくなっていますが、それは文字の誕生から言われていたことで、実際にソクラテスも同じことを指摘しています。他方、もし質問にある「機械との同化」が、文字からネットにいたるそのようなメディア的問題とはまったく異質の技術的な可能性、たとえばマン−マシン・インターフェイスの発展や、その彼方に幻視されるシンギュラリティ(これはSF用語ですが)の話をしているのだとすれば、それについて議論するのはまだ時期尚早でしょう。

――7.Gilles DeleuzeMichel FoucaultJacques Derridaのような思想家たちが20世紀に亡くなりました。21世紀には先生のような新しい思想家たちが期待されています。そこで、21世紀に人類が直面している思想的課題にはどのようなものがあるのか、そしてそれに対する知識人たちの姿勢はどうあるべきか、先生のご意見を伺いたいです。
あまりにも問いが大きすぎ、責任ある答えかたはできません。しかし、ぼく個人の意見ということでいえば、イデオロギーがない状態、つまり「友」と「敵」が単純に区別できなくなった世界において、言論人がどうあるべきかと考えていくのが、とりあえずの課題だと考えています。20世紀の言論や政治は、基本的に友と敵を分けるものでした(だからこそデリダフーコーの仕事が例外的に輝いていたわけです)。しかし、今後は異なる発想が必要ではないかと思います。

――8.最後に、先生の動向に関心が多い韓国の研究者や読者たちに、何か一言お願い出来ますでしょうか。
ぼくの本が韓国語に翻訳されたことを、とても嬉しく思います。しかし、残念ながら、それが韓国の知的文脈でどのように受け止められているのか、ぼく個人はほとんど知りません。それに限らず、日本では、韓国の批評的、思想的情報がまだほとんど紹介されていない状況です。この点は、ネット時代になっても驚くほど変わっていません。しかし、日本と韓国はたがいに多くの文化的、社会的状況を共有しており、したがって韓国の知的状況に対する日本側の関心も小さくないはずです。ぼくの仕事は、現代思想ポップカルチャーを繋ぐものですが、それがまた、両国のあいだの新しい交流の契機となれば嬉しく思います。