鼎談予告第2弾です(hazuma)

北田さん(id:gyodaikt)もはてなで鼎談のハードな部分を公開してくださいました。そのお返し?というわけではないのですが、鼎談の僕の発言部分をもうひとつ公開します。宮台さんのときとはまたちょっと違った方向で、「理論的」な話題です。こういう話題に関心のある読者のみなさんは、ぜひぜひ!


東:<……>いずれにせよ、キットラーの議論を受け入れたうえで、現在問題にすべきなのは、コンピュータが、その点で、タイプライターではなく、むしろグラモフォンの継承者、つまり「リアルなものを直接書き込むメディア」だということです。ご存じのように、キットラーの主著に『グラモフォン・フィルム・タイプライター』という本がある。グラモフォンが現実界に、フィルムが想像界に、タイプライターが象徴界に対応するわけですが、これらはいまはすべてデジタル・メディアに統合されつつあるわけですね。音も映像も文字も、すべてがデジタル・データの表現でしかなくなっている。だとすれば、グラモフォン・フィルム・タイプライターのメディアの棲み分けが現実界想像界象徴界の三界図式を派生的に生み出したように、現在のメディア状況は、世界と心の構造についての新しい解釈図式を生み出すことになると思う。そういう点で、キットラーの図式は、正しいがゆえに、いまの状況とはズレてこざるをえない、というのが僕の考えです。
 ではその新しい解釈図式とは何か。僕はそれを『動物化するポストモダン』や「情報自由論」では「ポストモダンの二層構造」と呼んでいたのですが、要は、一方にはすべてを統合する「リアルなものを書き込むメディア」=コンピュータがあり、他方にはその表現型として音や映画や文字というさまざまなメディアがある、という二項図式が優勢になると思うのです。いまや、音も映像も文字もすべて想像的なものでしかない。その彼方にリアルなデータベースの世界があるのだけど、人間はそこには決して到達できない。データベースとシミュラークルの二つの世界があり、そしてそれらは両方とも解釈学的な思考とは関係ない。
<……>
 そう考えると、1800年代と1900年代は本当の意味では対立していないのかもしれない。むしろキットラーは『1800/1900』ではなく『1800/2000』という本を書くべきだったのではないか。
 ここからさきはいつか書くかもしれない本の構想の話になってしまうんだけど、僕は20世紀は全体的に移行期だと思うんですよ。キットラーの説明によれば、1800年の世界には、シニフィアンシニフィエ、官僚的言語と詩的言語の対立のなかから超越論的シニフィエへ、いわゆる母の口へと遡行するメディア的秩序が存在していた。つまり象徴界しかないわけです。他方で、2000年代には、現実界想像界が直接結びつくメディア的秩序がある。三界図式はその中間に位置する。つまり、19世紀的なものが徹底化されて20世紀から21世紀へと繋がるのではなく、むしろ、19世紀的なものから21世紀的なものへ向かうその途中の姿が20世紀の消費社会化だったり情報社会化だったりする、というのが僕の大雑把な歴史観ですね。
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もう前日だから言ってしまいますけど、今回は公式予告では書かれていないちょっとした特別掲載が森川氏絡みであります。。。お楽しみに!