宮台鼎談抜粋・1(hazuma)

ところで、今回の宮台真司氏、鈴木謙介氏との鼎談は、1月号の西尾維新インタビューに負けないハイテンション&マッシブなものです。以下、参考までに、僕の発言部分をひとつ引用しておきます(今後校正が入る可能性があります)。こんな会話が交わされているわけです。


東:<……>その例がまさに僕と宮台さんの違いを表していると思うので、ちょっとこだわりますね。『エヴァンゲリオン』について受け取り方が二つあったと仰いましたが、僕の考えではそうではないんですよ。
 宮台さんの整理では、一方に制作者あるいは制作者と同世代の元ネタ読解があり、それはそれでひとつのコミュニティになっていた。他方ではもっと若い世代がいて、これはネタをネタと知らずにベタに消費して、「シンジくんは僕だ」とかいって泣いていた。そういう対立ですよね。大塚英志流に言えば、物語消費の仕掛け人(転ばす側)と消費者(転ばされる側)という対立です。そしてこれが、送り手と受け手という対立になっている。それで、いま宮台さんがおっしゃろうとしたことは、元ネタも分からずシンジくんに感情移入するベタな消費者が増えてきた、という話ですよね。
 しかし、『動物化するポストモダン』で書いたように、僕はそこにはまったく別のモメントがあったと思う。『エヴァンゲリオン』のブームを支えたのは、「俺元ネタ分かったよ」のネタ志向の連中でも、「シンジくんは僕だ」のベタの連中でもなく、物語も元ネタも関係なく、「二次創作」の海(データベース)のなかでただただキャラクターを消費したいという「萌え」な連中ですよね。「綾波のフィギュアさえあればいい」というその市場の出現は、ガイナックスにとっても予想外だったはずです。そして実際、彼らの消費形態は、それまでのオタクたちの価値観を徐々に壊していく。のちギャルゲーの隆盛へと繋がっていくその流れは、ある世代から見ればオタクの「堕落」だろうし、実際いまでもそんなことがよく言われていますが、大事なのはそれが堕落かどうかではなく、ある世代の制作者の意図を超えていたということです。これはネタかベタかという対立には収まらない。受け手がバカになったという話とも違う。<……>