期待に応える(前日のコメント欄参照)

「……では、期待に応えて、綾波萌えとアスカ萌えの違いについて語ることにしよう。綾波レイは、文字どおりの生権力(バイオテクノロジー)で管理された、複製可能でポストモダン的な「動物」にすぎない。彼女にボーダーラインの特性が与えられていたのは、この動物の時代においては、心的な病ですらフェイクとして消費されることを意味する。対して惣流・アスカ・ラングレーは、過剰なまでの規律訓練型権力(父≒加持)に悩まされる、いわば超−近代人である。『エヴァンゲリオン』の二人のヒロインは、このように、ポストモダン的動物と超近代的なスノビズムの両者を見事に象徴していた。
それゆえ、『エヴァンゲリオン』の鑑賞において、綾波萌えかアスカ萌えかどちらを選ぶことは、単なる個人的趣味を超えて、ある種の政治的選択を意味することになる。綾波に対してナルシスティックな自己投影をすること、それはつまり、この動物化した資本主義社会において、「自分だけは特殊なのだ」という幻影を維持したまま、にもかかわらず自らの動物性=複製可能性を肯定する逃避にすぎない。そして、その逃避は、「まったり」(動物性)から「天皇」へと推移した宮台真司の理路を反復しつつ、どこかで天皇主義へと通じていくことになるだろう。
それとは対照的に、アスカに萌えること――いや、もし「萌え」が動物の時代に特徴的な言葉だとすれば、それはむしろ「愛」と呼ぶべきなのかもしれないが――、それは、動物化した私たち自身が、もはや近代的になれないこと、にもかかわらず近代的になりたい(父を見出したい)と苦悩し続けるしかないこと、その不可能な条件の自覚にほかならないのである。そのどちらがよりラジカルで批評的なスタンスであるかは、言うまでもない。
アスカの魅力について語り始めるとキリがない。いずれにせよ、アスカ萌えは、綾波萌えと絶対に同列に語られるべきものではないのだ。むろん、マヤ萌えやミサト萌えなど、筆者には存在しないも同然である。」