serious/unserious

文學界の連載でもいちど書いたネタなのですが、最近、「真面目」と「ふざけている」の境界についてよく考えます。

そもそも批評家というのは詐欺師みたいなもので、どこまでマジでどこまでネタなのかよくわからない文章を生産するのが役割であるような変わった職業です。
しかし、それにしてもぼくは最近、ネットスターとかゼロアカとかやっているせいで、その混乱がますます進行している。たとえばぼくがネットスターで発している発言の多くはネタであるとして、しかしでは、ゼロアカで藤田くんやら坂上くんやらを褒めているのもネタなのか、ニコ動的生成力に批評の可能性が宿るとかいう発言もネタなのかといえば、ネタのような気もすればベタ(マジ)のような気もする。
逆に裏返せば、思想地図だってどれくらいマジなのか、自分でもよくわからない。客観的に観て自分の行動は「東はマジだ」と言われる水準をクリアしているとは思うけれど(したがって「自分はマジなのだろう」と第三者的に感じるけれども)、それは決して内的確信には結びつかない。これは韜晦ではなく、正直な感覚です。
むろん、ぼくもいい年齢の大人なのだから、自分の発言には責任をもたねばなりません。それに社会が仮構してくる「人格的一貫性」も担わなければいけない。だから、そのレベルではきちんと個々の発言について「あれはネタだった」とか「あれは責任を取る」とか区分けする。その点の責任を回避する気はまったくないし、実際に現実社会ではそうやって生きているのだけど、しかしこういう場だからこそ言ってしまえば、発話の瞬間の感覚としてはつねに曖昧なのです。
こんなぼくだから、しばしば若い読者から、さまざまな話題について「東さん、あれはどれくらい本気なんですか」と尋ねられる。そういうときぼくは多少イラっときつつも、同時に、ああぼくもむかしはこんなふうに年上のひとの「本音」を性急に聞きだそうとしていたものだなあ、と感じます。
結局のところ、マジとかネタとかが自分のなかで区別できるのは、20代くらいまでなのかもしれません。30歳を越えてくると、自分が過去にどのような発言をしてきたのか、そしてその自分自身の発言を自分があとでどのように「ねじ曲げて」きたのか、さまざまな記憶が蓄積してくる。したがって、だれよりも自分の発言が、そして自分の心の一貫性が信じられなくなる。もし30代、40代のひとでそんなふうに思わないひとがいるとすれば、それはよほどの聖人君子か、あるいは単なるバカかどちらかでしょう。
人間はそうやって、真実だか嘘だかわからない発言ばかり振りまきながら、年齢を重ねていくのかもしれません。

ちなみに、こんな人生論みたいなエントリだとゼロ年代読者が失望しそうなので付け加えておくとw、以上は宮台真司『日本の難点』を読みながら考えたことでもありました。
この本での宮台さんのメッセージは、要約すれば「ものごとはベタに取るな、ネタとして受け取れ」、それだけです。このひとつの立場から、教育問題から国防や外交まですべてが論じられている(もしただひとつ例外を挙げるとすればそれは娘について触れるところなのでしょうが、この点を論じ始めると長くなるので割愛します)。そしてぼくは、その一貫性に驚嘆しながらも、にもかかわらずぼくはこうはなれないのだよな、たとえ宮台さんにバカと思われても、と感じたわけです。
誤解を避けるため付け加えますが、それは決して、ぼくは宮台さんほど斜に物事を見れない、どうしても純粋に理念について考えてしまうとか、そういった頭の悪いロマンティシズムの話ではありません。すべてをネタとして見る、たいへんけっこうです。しかし「すべてをネタとして見る」ことと、「すべてをネタとして見る立場に立っているとベタに書く」ことのあいだには大きな差異がある。そしてその差異こそぼくが宮台さんのような立場に近づけない理由であって、それは最終的には言語感覚の差異に基づいている。つまりはぼくは、単純に宮台さんのような日本語が使えないのです。ぼくの日本語には、どうしてもベタがまとわりついてくる/あるいはメタへの拡散に引き裂かれてしまう。ぼく自身がどれだけそれを振り払おう/収束しようと思っても。
結局のところ、それが、彼が社会学者で、ぼくが社会学者ではないということの意味なのかもしれません。
いや、これもまた思考停止的な逃げですが。

なお、『日本の難点』そのものについては、共同通信配信で普通に書評を書きました。