社会学者?

藤村龍至さんの思想地図論文が届きました。これがまたいい論文です。彼の唱える「批判的工学主義」についてもっともまとまった文章になっています。
次回の思想地図、円城塔さん、福嶋亮大さん、鈴木謙介さん、そして藤村さんと続々とテキストが届き、そのどれもが期待以上の水準です。そのほかに例の東工大シンポと、原武史北田暁大両氏との鼎談、それにこの春に宮台さんと行った講演旅行の報告も載るので、次号はたいへん読み応えのあるものになることはまちがいありません。表紙もよくなったし。
乞うご期待です。

ところで、そんな藤村さんが編集したインタビュー集『1995年以後』(エクスナレッジ)。ぼくもおもしろく拝読しましたが、感想ブログを巡回していたら気になる表現にぶつかりました。それは「東浩紀大塚英志のような社会学者」という表現です。
ぼくと大塚さんが社会学者!
しかもそのブログでは、「藤村は東や大塚のような社会学者に寄り添いすぎ」と批判的な文脈で、そういう発言がさらりと記されている。『1995年以後』には大塚さんの名前はほとんどでてこないので、これはおそらく宮台真司さんと混同しているのでしょう。
なるほど、藤村さんの活動というか問題意識は、建築プロパーからは違和感をもって見られるのかもしれません。しかし、そんな違和感を表明するにしても、ぼくを「社会学者」に分類し、宮台さんと大塚さんを一緒にするなんて、さすがに建築界の外部の言説、というか<現代思想と美術批評と建築批評とメディアスタディーズとそのほかそのほかが渾然一体となって作り上げ、かつてインコミや10+1を機関誌としていたポストモダニズム系の批評言語>の外側にある批評的言説に対して杜撰すぎないか。それで藤村さんの試みを難じても、説得力をもたない気がします。
そもそも、ぼくを「社会学者」に分類することそのものが、1990年代、『批評空間』派が、抽象的でレベルの高い言説=批評、現実に寄り添ったレベルの低い言説=社会学・心理学とレッテルを張り、後者を排除したときの考えをそのまま引きずっているわけで、こういう言い方はしたくないけれど、15年くらい遅れている。まさにそれが「1995年以前」のパラダイムです。
むろん、ぼくは建築批評の世界全体についてはまったく知りません。宮台さんと大塚さんを混同するようなケースは、さすがに例外でしょう――とはいえ、ぼくを「社会学者」と呼ぶ建築関係のひとはときどきいるんですよね。
むしろ社会学者のみなさんに失礼だと思うのだけど。

なお、『建築雑誌』6月号に批判的工学主義について短い文章を寄せました。