批評の書き方 実践編

とかいうタイトルの講義を朝日カルチャーセンターでやってきました。東浩紀がどういう風に批評を書いているのか、を、(1)批評全体の考え方、(2)批評を書き出すときの心構えそのほか、(3)具体的な文章の書き方、の3段階にわたって情報開示した感じの講義です。Google Docsでバージョンごとに分解して解説したりしました。ああいう内容というのは、まあ一種の自慰行為でもあって(クリエイターがトークショーで「おれはこういうふうに作品作ってるから」と言っているときの快感がはじめてわかりましたw)、とても公で本にするようなものでもないと思いますけれど、いつか機会があったら自費出版ででも出版するかもしれません。

ところで、そこで言ったことですけど、ぼくは基本的に、あるタイプの文芸評論はだれにでも簡単に書ける、と思っています。だからこそ、そんな講義も引き受けたわけです。

その理由は、柄谷行人以降に書かれている多くの評論が、じつはぼくが「前期/後期モデル」と呼ぶある単一のフォーマットに則って書かれているからです。

それはこのようなかたちをしています。批評の対象となるのがXという作家あるいは思想家だとしましょう。すると、そのフォーマットに則ると、つぎのような批評が書かれます。「Xには前期と後期がある。前期XはAをテーマにしている。そして後期Xは一般にはダメだと言われる。しかしじつは、後期XはAを突き詰めたがゆえに、むしろ困難Bに立ち向かっているのだ。ではそのBはなにか。ぼくたちもまたそこでXと同じ困難に直面せざるをえない」云々。ここでのポイントは、作家のなかに「困難」を見つけ、それと書き手が共振すること。そしてその「困難」を見つけるために、作家のなかに前期と後期という(名指しはなんでもいいのですが)、一種の切断線を導入することです。このふたつができれば、批評の90%は完成したと言っていい。

実際、柄谷行人以降、あるいは批評空間以降の批評言語に親しんでいるひとであれば、じつに多くの書き手が、無意識のあいだにこのようなレトリックに絡め取られていることがわかると思います。というか、柄谷さんがこのフォーマットの創始者です。Xに、ウィトゲンシュタイン、カント、マルクスフロイト、なんでも挿入してみてください。『探究』はその点から見ると、ミニマリズムのような反復の本です。

このフォーマットをどのように利用すると「深そう」に見えるのか、そしてどのようにまわりに装飾を張り巡らせるか(たとえば政治性があるかのように見せかけるか)、そこらへんのテクニックについては、朝カルの講義で言いました。だから繰り返しませんが、いずれにせよ、ぼくはつねに思うのですけど、批評家志望のひとはまずこのフォーマットを頭に叩き込めば、驚くほど簡単に「批評らしきもの」が書けるはずなのです。いや、実際にそうです、実例がぼくです。20歳代前半のぼくはまさにそのようにして書いていました。

しかし同時に、だからこそ思うのですが、このフォーマットは、あまりに強い批評生成力をもっているがゆえに、むしろ使うべきではないといまのぼくは考えています。じつのところ、『存在論的、郵便的』というのは、ぼくがこのフォーマットから逃れるために記したような書物です。「前期デリダ脱構築を主題としている。後期デリダはダメだと言われる。しかしじつは、後期デリダは、脱構築を突き詰めたがゆえに、むしろ奇妙なテクストを書くようになったのだ」云々。それはまさに前期/後期モデルです。だからこそぼくは、その本当は名指しえない実践を、あえて「郵便的」と名指し、語り続けることで、「困難」との共振に帰着してしまう柄谷さん的な隘路から逃れようとしたのでした。