仮面ライダー……!

先週の土曜日、新潮の連載が脱稿してふらふらになっている状態で、子どもと一緒に「劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」という気が狂ったタイトルの映画を観てきました。
いやあ、内容はともかく、キャラの組み合わせの可塑性もあそこまで行くとたいしたもんだ、というか、ぼくが『動物化するポストモダン』で書きたかったのはこういうことなんだよな*1、とか思ってそれなりに楽しんで帰ってきたのですが、週が明けたら下記のような衝撃のニュースが。
http://www.j-cast.com/2009/05/18041330.html
マジか! ディケイドってショッカーなのか!
もしその流出情報が本当だとしたら、これはすごい。先日スタートレックについて、「戦後アメリカの神話を再話する試み」だと書きましたが、日本の仮面ライダーもきちんとそれをやっているということですね。ディケイドの展開がネタではなく楽しみになってきました。

*1:「キャラクター」という言葉には二つの意味があって、ひとつは社会的現実をサバイブしていくために必要な虚偽人格(「キャラを演じる」)で、もうひとつは要素の組み合わせによって結果的に生まれてしまう偽物のアイデンティティ(「キャラを立てる」)ということなんだけど、ぼくは鈴木謙介宇野常寛の立場とは微妙に異なり、前者より後者に興味がある。それで、ぼくの考えでは、龍騎のおもしろさは宇野くんの言うとおり「いろいろなキャラの人間がサバイブするために戦う」ところにあり、それはそれでとても完成度が高いのだけど、電王はもはやまったくそんなことはなく、複数のキャラが多重人格的に入れ替わり、しかもそれらは最終的にはウラタロスはメガネとかキンタロスは斧とか記号によって指示されるものへと還元され、融合(クライマックスフォーム)までしてしまうあたりがじつにきもちいい、そしてむしろラジカルだ、とかなんとかそんな話。あと5歳若かったら、これでひとつ論文でも書いたなw。